季節が変わるごとく、感覚の対象は移り変わっていく

『シュリーマド・バーガヴァタム 第10篇 3巻 第14巻 44章 17節』

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(シューカデーヴァ・ゴースワーミーは続けた)「バーラタ王朝の英雄よ、女性たちがこのように話すと、全神秘力の主人の主クリシュナは、心を敵を殺すことに集中させた」

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クリシュナの別名は、ヨーゲッシュワラと言われています。ヨーガとイーシュワラがくっついた言葉なので、ヨーゲシュワラというと、イーシュワラとは主人という意味なので、ヨーガの主人、或いはヨーガの支配者ということになるのです。

全てのヨーガの目的は、実は、クリシュナを知ること、クリシュナと結びつくことということになります。

クリシュナは、全ての神秘力、全ての知識、全ての力の源、もちろん全ての美や名声なども含みます。

ですからクリシュナは、マトゥラーの女性たちが色々話していたことを聞くことができたということです。

クリシュナは私たちの話すことを聞くことができる、或いは私たちが思いを察することができる。これがクリシュナの一つの特徴です。何故かというと、クリシュナは私たちのハートに、魂と一緒に隣にいるので、魂がどう考えているかがわかるということです。

『ウパニシャッド』にはこういう書き方をしています。

二匹の鳥がいる。一匹の鳥は果実を食べようとしている。しかしもう一匹の鳥は、その果実を食べようとしている鳥をただ見ているだけである、と。

私たちはどういう行動をするかというと、感覚を満たそうとするのです。すなわち、自分を満足させようとして、さまざまな物質的な行為をするということです。ところが、物質的な満足をしようとする行為というのはエゴに満ちているので、そのエゴの結果、私たちは縛られてしまうのです。エゴに満ちた行為というのは、反動があるということです。行為のことをカルマというので、そのカルマにあった反動も、大きな意味ではカルマと言われている。だから行為の結果、それをカルマとも言うということです。

私たちは行為の結果に縛られるということです。ところが、スーパーソウル、パラマートマーは、私たちが行為の結果を楽しんでいる姿、或いは果実をついばむ姿をただ見ているのです。ですからヴェーダではこう言われるのです。スーパーソウルは、その行為を許可する、承認を与えるのです、と、こういうことも言われるのです。

ところが究極的にはクリシュナが全てをコントロールしているとも言うわけです。ですから私たちがした行為というのは、直接クリシュナがやっているわけではないのですが、私たちの望みに応じて、好意に応じてその反動を受けるということです。

ですから私たちが今世で色々な現象を経験するのです。いわゆる喜ばしい現象、いわゆる悲しい現象、苦しい現象、こういうものを私たちは経験するということです。これは何故そういう経験をするのですか、と言ったら、その過去に行われた行為の結果、印象が、今世で表れている、或いはカルマの結果が今世で表れている。ですから他人のせいにするのはこれは筋違いだということです。自分がどんな結果を受けようとも、その最終的な責任は自分にあると、ですからクリシュナが悪いわけではないということです。

よく私たちが言う言葉は、私みたいないい人間が何でこんな思いをしなくちゃいけないんだ、と言うわけです。なんでこんなに苦しまなきゃいけないのですか、ということを一般の人はよく言うのです。私みたいな立派な人が、何でこんなに苦しむのですか、私みたいな良い人が何で苦しまなきゃいけないのですか、と、或いはあるひとはこう言うのです。私みたいな人が何で東大に入れたのですか。何で私がノーベル賞を、など、こう言う事も、逆の立場もあるわけです。これはどう言うことかと言うと、過去にやった、善悪の結果、パーパとプンニャの結果が、今世で表れていると言うことです。

ですからクリシュナは、私たちの思いも行為も全部知っているということです。だけどあえて、口を出すことはしないのです。例えば親もあるのです。親も口うるさく言う親もいますし、何を言っても聞かないなと思ったら、親も黙ってしまうこともあるということです。クリシュナはどちらかと言うと、中立的な立場に立っているのです。

私(ジャヤーナンダ・マハーラージャ)のグルデーヴァがある時面白いことを言ったのです。神像は何故話さないのですか、と。

もちろん神像が話す場合もあるのですが、この回答がこう言ったのです。もし神像が話したら大変でしょう。すなわち、食べたい、夜中に食べたいと言ったら、夜中に料理を作らないといけない。それを1日に何度も言ったら、もう仕事している暇もないと言うことです。クリシュナは食いしん坊でもあるので、お腹が空いたと言ったら作らなければいけないのです。私たちはそれに対応できないからクリシュナは黙っているのです。クリシュナは優しいわけです。ところが、ある人にはそれを言うのです。食べたい、と。これをクリシュナが言うようになったということは、自己を悟っていると言うことなんです。

実際にいたのです。実際にいるのです、そういう人が。

ある時、サードゥ・マハーラージャのムンゲル寺院の近くで、ある時私が招待されたのです。すごく、バッサーリャ・ラサの完成したマタジがいるから、行こうと言われて行ったのです。ひょっとしたら今はもう他界されている可能性もあるかもしれませんが。

そしたら、その女性は、女性にクリシュナが話すのです。ゴパーラが。マー、これが食べたい、と言ったらその人は夜中でも起きて料理をするのです。マー、これが食べたいと言ったら、買い物に行くわけです、それが結構無茶な注文をするわけです。ですがその人は、結構もう年配というよりかなり高齢な女性なのですが、すごいバーヴァに溢れているのですね。私もお会いして驚いたのです、すごいバーヴァに溢れているのです。

バーヴァとはどういうことかというと、すごく愛に溢れた人、いわゆる母親の、バッサーリャ・ラサに溢れている人なのです。だからゴパーラを自分の子供だと思って、24時間お世話をしているのです。こういう段階の人だったのです。ですからそういう自己を悟った段階の人たちもいるのです。

ところが私たちのようなまだ物質的な段階にどっぷり使っているような段階の人には、クリシュナは敢えて離さないのです。何故なら、話すと私たちが対応できない、そうすると私たちはどう考えるかというと、ああ私たちはこれもできない、あれもできないと言って、私たちがこの自分を責めることになってしまうからです。

私たちの傾向にはあるのです。自分を攻めるという傾向が。自分を責めないと、誰を攻めるかというと人を責めるのです。あの人が悪い、この人が悪い、というように、今度は人を責めなくなると、ああ私が悪かった、私は何て酷いんだ、こんな酷い生きてていいのか、もうどこかに行った方がいいのではないか、死んだ方がいいのではないか、と、こう考えるのです。で、多くの人たちが、それで心の病気になってしまう、或いはそういう場合は命を絶ってしまう、捨てる場合もあるというわけです。

でも、よくよく考えてみたときに、全ての現象は、もう表れてくるということです。

こんなイメージです。

私たちが映画館に行きます。ある映画を見ようとする。観客席に座り、映画が始まると、ストーリーが自然に流れてきます。

私たちはただ観客として座っているだけです。その映画を見て私たちが、ああどうしよう、ああよかったね、と、こういうふうな感情を、その映画を見て、私たちが勝手にそう反応するのです。

でもこれを第三者的に見たらどうですか、ということです。その映画に感情を移入しないで見ていたらどうですか、ということです。何、あるひとが座って、ただシーンが移り行くのを見てるだけじゃん、と、こういうことです。すなわち魂は、映画館で座っているような人なのです。だから魂は実は何もしないということです。しかし、過去に怒ったカルマがあるから、私たちのハートの中に、チッタの中に、クレーシャ、或いはビージュ、さまざまな罪の原因、喜びの原因があるから、現象世界で、映画のフィルムのように表れてくるのです。そのフィルムに対して、私たちが右往左往しているわけです。ああよかった、ああどうしよう、ああ悲しい、苦しい、こういう現象をするということです。

ところが、リアリティで言ったら、それは一種の幻想であるということです。リアリティであるのですが、一種の幻想なのです。

何故一種の、と言うかというと、それは長く続かないからです。私たちの感覚が受ける感情というのは長く続かない。そしてこの世の中の現象というのは必ず動いているということです。ですから一箇所に留まらないということです。皆さんの楽しいという感情も、ずっとは留まらないということです。翌日になったら変わる、一年経ったら変わるということです。皆さんの苦しいという感情も、これも長続きしないということです。今日は苦しいかもしれないけれど、明日は苦しくないかもしれない、或いは一年後、10年後は苦しくない。

例えば受験勉強で苦しんでいたと。だけど受験勉強が終わってしまったら、何だったんだろうあれは、と。馬鹿だったんじゃないか、と思う人もいる。或いはずーっと引きづる人もいる。ああ受験失敗したために今の人生はめちゃくちゃになった、みたいに考える人もいるかもしれない。でもリアリティは、来ては去るものなのです。

それを『バガヴァッド・ギーター』ではなんと言うかというと、「季節が変わるごとく、感覚の対象は移り変わっていく」と。だからギーターではなんと言っているかというと、「それに耐えることを学べ」と。

この世の中では、いわゆる、良いこと悪いこと、いわゆる、楽しいこと、苦しいことが来る。しかしこれは来ては去るものである。長く留まらないものである。だから、それをただ、耐えることを学べ、と。だからそれにあまり執着してはいけないということです。

でクリシュナはどうしたかというと、全てを聞いたのですが、心を集中させたのです。敵を殺すことに集中させたのです。

『シュリーマド・バーガヴァタム 第10篇 3巻 第14巻 44章 18節』

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二人の主への愛情から、両親のデーヴァキーとヴァースデーヴァは、女性たちの恐ろしい話を聞いて、悲しみに打ちひしがれ、息子たちの力も知らずに、嘆き悲しんだ。

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ここでデーヴァキーとヴァースデーヴァがいます。クリシュナとバララーマは、デーヴァキーとヴァースデーヴァの子どもとも言われます。このバーガタムによれば、ヴァースデーヴァとデーヴァキーの子どもとして、バララーマもクリシュナもいます。それも、過去生で、デーヴァキーとヴァースデーヴァは苦行していたのです。で、至上主を子どもに持ちたいという望みを持った。それでクリシュナをバララーマが息子として生まれた、と、こういう経緯もあるのです。

デーヴァキーとヴァースデーヴァは、自分の子どもだと思っているというわけです。基本的な考え方は、クリシュナとバララーマは自分の子ども。至上主バガヴァーンという考え方は、時にはあるのですが、基本的にはないということです。ですから自分の子供だと思うと、この大きな力を持つレスラーたち、格闘家たちを目の前にして、女性たちが言うわけです。こんな戦いは不当だ、おかしい、何でこんなに柔らかい優しい子供が、あんな大男と戦わなければいけないんだ、みたいな話を聞くわけです。そうすると、子供たちがどんな力を持っているかも知らないで、ああどうしようどうしようと当惑されたのです。

『シュリーマド・バーガヴァタム 第10篇 3巻 第14巻 44章 19節』

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主バララーマとムシュティカは、数多くの格闘技の技を見事に披露し、クリシュナがチャーヌーラと戦うのと同様に戦った。

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クリシュナがチャーヌーラと戦って、バララーマがムシュティカと戦った。さまざまな技を使っては、その技を防御する。見たりするわけです。一見、普通の格闘家がするように、同等に戦うわけです。クリシュナがチャーヌーラと戦って、全く劣勢という訳ではない。同等に戦うと言うことです。

『シュリーマド・バーガヴァタム 第10篇 3巻 第14巻 44章 20節』

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至上主の手足から出る激しい一撃は、チャーヌーラにとって稲妻が頭上に落ち、体の各部分を破壊し、痛みと疲労をさらに増すかのようであった。

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クリシュナがチャーヌーラの頭に一撃する、それはあたかも雷が、稲妻が頭の上に落ちたかのようである。ですから体の各部分が、震えたり、壊れたり、すごく痛みを感じるようになった。或いはすごく疲れてきた。一般的にはこのチャーヌーラとムシュティカというのは、クシャトリアの中のクシャトリアなのです。すなわち、クリシュナの刺客として送られた訳で、通常は疲れないのです。通常は、多少の痛みなども感じない、強い、強靭な方なのです。それでもそのようになったと言うことです。

『シュリーマド・バーガヴァタム 第10篇 3巻 第14巻 44章 21節』

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怒ったチャーヌーラは、鷹のような速さでヴァースデーヴァを攻撃し、主の胸を拳で殴った。

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チャーヌーラは一撃されたので、反撃に出たというわけです。ここでクリシュナの名前は、バースデーヴァ、と言う名前です。バースデーヴァという名前は、ヴァースデーヴァの息子、というのが一般的な意味です。または超越的な、純粋な段階、これも、バースデーヴァと言われています。

『シュリーマド・バーガヴァタム 第10篇 3巻 第14巻 44章 22-23節』

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花輪で打たれた象のように、悪魔の一撃にも揺さぶられなかったクリシュナは、チャーヌーラの腕を掴み、彼を何度も振り回して、地面に力強く投げつけた。チャーヌーラの衣装や髪は乱れ、花輪も散り散りになり、地面に倒れて死んだ。まるで大きなお祭りの柱が倒壊するかのようであった。

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花輪というのは柔らかい。ガーランドは柔らかいわけです。ですからガーランドで殴られたところで、痛みを感じるわけではないのです。クリシュナはそのように、チャーヌーラの攻撃に、びくともしなかった、あまり感じなかった。逆にチャーヌーラの腕を掴んで、彼を振り回し、地面に力強く投げるわけです。そうすることによって、チャーヌーラは死んでしまった。あたかも大きなお祭りの柱が倒壊するようであった。

ですからクリシュナは、この悪魔を殺してしまった。またもや、カムサのクリシュナを殺そうとする試みは、ここで水疱に消えていった。こういうことです。ですからクリシュナを倒そうと、殺そうという悪魔的な試みは全て失敗するということです。